いつもときめいてる人になりたいな。
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遠藤 実さんの『人生三十三言』
遠藤 実(えんどう みのる)さんは、戦後歌謡界を代表する大作曲家で、生涯に5,000曲以上も曲を作られたそうです。流しの演歌師から作曲家となり、自分の名前を冠した「ミノルフォン」というレコード会社まで設立した立志伝中の人物。

その遠藤 実さんが『人生三十三言』という格言を残されています。
苦労人であった遠藤 実さんならではの凝縮された言葉。
あまり知られていないようですが、素晴らしいものですので、ここにご紹介させていただきます。


遠藤 実さんは、戦時中、新潟県に疎開していたときに「門付け(かどづけ)」をやっていたんだそうです。門付けというのは芸を民家の軒先で披露して金品を貰う習慣。越後獅子などはそのスタイルでした。遠藤さんはその延長で、流しの演歌師になったんです。
遠藤さんラーメンがお好きでね、僕は一度一緒に食べに行ったことがあります。「昔を思い出すんだ」と仰っていました。
2つの「マザー・テレサ」映画

インドのことが少し気になって、2つの「マザー・テレサ」映画を観ました。
一つはオリビア・ハッセーが演じた『マザー・テレサ』(2003年:イタリア/イギリス)。これは前に一度観たことがあったものです。
もう一つはドキュメンタリー映画『マザー・テレサ 母なることの由来』(1986年:アメリカ)です。

実はオリビア・ハッセーの『マザー・テレサ』を最初に観たとき、ちょっと違和感を感じていたのです。
「えっ、マザー・テレサって、こんな人だったの?」という‥‥。
確かにやっていることは立派なのですが、この映画のテレサは、周囲の意見を聞かない傲慢な人のように描かれていたのです。
決して、監督が意図してそのように描いたわけではないのでしょうが、私にはそう感じられました。

問題は、「他力」ということの捉え方です。
「他力」というと、仏教の専門用語のように思われるかもしれませんが、キリスト教は「他力」の宗教だと、私は思います。
日本の仏教では、親鸞の浄土真宗が「他力」の代表ですが、私の捉え方はむしろ逆で、浄土真宗はキリスト教と同じという印象を持っています。

キリスト教が、日本の風土に合わせて説かれたのが浄土真宗だったという捉え方です。
だからこそ、日本ではキリスト教が広がらなかった。
お隣の韓国ではあっという間にキリスト教が浸透したのに、日本にはすでに浄土真宗というキリスト教があったので、広がらなかったのです。

さて「他力」ですが、いっぱんに「それじゃ他力本願でしょ」などど言うような、「他人(ひと)任せ」にすることを「他力」というわけでは、勿論ありません。

万物は創造主の懐にある。だから、そこで起きることは、みな創造主たる神のご意向に適ったものである。
そこでは「良いこと」も「悪いこと」も起きるが、「悪いこと」というのは、自分にとっての不都合というだけであって、もっと大きな視点、長い時間的スパンから見れば、全体としては、やはり神のご意向に沿って動いているのである。
だから、その道理をよく知ったうえで、すべてを神に委ねれば、すべてよいようになさって下さっているのだし、それで本当の安心が得られる。

これが「絶対他力」です。
崖から思い切って飛び降りる。
その時に、死ぬかもしれないし、奇跡が起こって生き残るかもしれない。
けれど、どっちだっていいと覚悟して、安心して飛び降りる。「他力」とは、いわばそのようなことです。
ですから、「他力」は「自力」よりも、実は勇気がいる。
この「他力」を徹底することが、本当の「信仰」ということになるのです。

つまり、あらゆる宗教にとって、最後は「絶対他力」に行き着くわけです。
しかし、一般に言っている「信仰」は、我が神、我が教団、我が教義への帰依を求めているに過ぎません。
ただ「信じなさい」ということを、「信仰」と言っているので、私はそれは否定しているわけです。

話をオリビア・ハッセーの『マザー・テレサ』に戻しますと、このマザーも「絶対他力」を強烈に語るわけですが、その発露として、「自分は神様に選ばれている」「選ばれし者としての行動は誰も阻止できない」「すべては神様がよいようにしてくださる」という強い思い込みによって、周囲の者たちを、自分の我が儘で振り回すのです。
そして、周囲が折れて、マザーの意向に沿うように修正すると「ほら、神様はやっぱりよいようにして下さった」と言うのです。

宗教の最後は「絶対他力」には違いないけれども、「他力」が陥りやすい危険が、まさにそこにあります。
 ●自分こそは「選ばれし者」という強烈な自意識
 ●周囲に耳を傾けない独断
 ●我が儘で周囲を動かし、自分からは何もしない
 ●周囲が困惑して努力しているのに、それが成就すると、努力した人たちに感謝もしない。
 ●そして、自分と神との特別な関係にのみ、感謝を捧げる。(そして最初に戻る)
このループが、延々と回り続けていくのです。

オリビア・ハッセーの『マザー・テレサ』は、そういう(私が思うところの)嫌な指導者として描かれていたのです。
それで今回、ドキュメンタリー映画の『マザー・テレサ 母なることの由来』を、観てみました。
すると、オリビア・ハッセーの『マザー・テレサ』に登場するエピソードや、台詞を、本当にマザー・テレサが実行し、話していたのだということが解りました。

ところが、受けた印象は全然違っていたのです。
確かにマザーは「自分は選ばれた」と言います。しかしそれは、いわゆる選民意識ではなく、「このような役目をやるように選ばれた」という覚悟の言葉だったのです。

また、我が儘を振り回すのですが、それは強固な信念と、戦略に基づいたものでした。
ニューヨークに拠点を構えたときには、援助者がカーペットや居心地のいい家具を用意してくれたのに、マザーは贅沢過ぎると言って、それを捨てさせます。

普通に考えれば、貧しい人たちにそのような居心地のいい場所を提供することは良いことだろうと考えるでしょう。でもマザーの考えは違っていました。
援助をする者は、相手と同じ境遇に入るべきだというのです。視線の高さを同じにするべきだ、というのです。それで、居心地のいい家具を捨てさせたのです。それは自分たちへの戒めだったのです。

また、マザーは自分から率先して行動しました。
この映画の冒頭でも「愛や神について語りながら、愛を知らない人がいます。愛には行動が必要です」と言っています。それは、マザーの信念です。
ベイルートの肢体不自由児を助け出しに行くときは、アメリカ大使館の大使の忠告を押し切ってまで、救出を断行します。

マザーは言います。
「私がインドで道端の人を助けたときも、たった一人から始まった。それが今までに4万2千人になっている。だから、いまこれをやることにも意味があるんだ」
そう食い下がり、周囲を動かし、実際にそれを成功させるのです。

栄養失調になり、やせ細って恐怖に震える子供をマザーが撫でさするシーンは圧巻です。
それまで息を荒げていた子供が、だんだんと落ち着いた呼吸に変わっていくのです。
そして、行動を同じくするシスターやスタッフには、つねに頭にタッチする感謝を捧げていました。

ドキュメンタリーで観たマザーは、信念の人であり、戦略家であり、行動の人であり、周囲への感謝を忘れない、愛の人でした。
その上でに立って、「絶対他力」がある。
マザーと一緒に働くシスターたちも、明日食べるものがなくても「まったく不安はない」と言い切ります。
これこそが「(その役割に)選ばれし者」の、揺るぎない自信です。

この世の貧困が止まない理由を、マザーは一刀両断で片付けます。
「それは、分け与えないからだ」と。

この世は競争社会で、競争社会に勝つことこそが是であると、私たちは子供のころから刷り込まされています。
そして、そのための教育を受けます。
ニュースでは必ず、株価を伝えるマーケット情報が流されます。
金融で儲けることは、誰かを損させることで成り立っている、その単純な理屈に平気になっています。

「この世の貧困の原因は、分け与えないから」
マザーが語るこの単純なセオリーとは、なんとかけ離れた世の中になってしまったのでしょうか。
死にゆく人への接し方
 死期が近づいて来ると、人はあらぬことを口にし始めます。
でもそれを、ボケてしまったとか、幻覚が出て来た、などとは言わないで欲しいのです。
これはボケたのでも、幻覚が出たのでもなく、本人が今実際に体験していることなのです。

人生という山登りには、下るときも必ず来ます。
赤ちゃんが、一日の殆どを眠り続けていても、ときどきわけの解らない言葉を発しても、お人形に話しかけながら遊んでいても、人はそれをボケたとか、幻覚を見たとか、幻聴だとかは言いません。
そのことをみんな忘れてしまっています。

赤ちゃんの時は、「あの世」から「この世」への転生が完全には定まっておらず、「あの世」で過ごす時間がまだ多いのです。だから、一日の大半を眠って過ごすのです。
反対に死期が近づくと、人は急に死ぬのではなく、だんだんと死んで行きます。
そのときに、赤ちゃんの誕生とは逆の回路を辿って、だんだんと「あの世」が入り込んで来るのです。

認知症も、「この世」での思考を司っている脳というハードウェアに障害が出て来るので、顕在意識が後退し、潜在意識、深層意識が表に出て来るのです。
皆さんも「夢」を見るでしょう。「夢」の世界は荒唐無稽ではありませんか?
荒唐無稽であっても、「夢」を見ている間はそれに気づかないし、気づけない。

認知症や死期が近づいて来たときの状態はそれと同じです。
周囲の人たちが見えないものを「見えた」と言ったときにも、本人には実際に見えているのです。
だから、幻覚とか、ボケたとかで片付けてはいけないのです。

そもそも「認知症」という言葉も「痴呆症」が差別語だということで、言い換えが定着したものですが、私にはあまりいい言葉だとは思えません。
ここには、「認知」がうまくできるのが正常というニュアンス、常識的視点があるからです。

霊界をよく知らない人たちはそれで正しいと思っていますが、「この世」に生きている人は、逆に言えば「あの世」の「認知症」状態だと言えます。

実は、「痴呆症」という言葉の前には「二度わらし(童)」という言葉があったのです。つまり二度目の童になるという意味です。
この言葉の方が実体を伝えているし、見守る温かな視線のようなものが感じられます。
「認知症」と言って、あたかも病気のように扱うこと自体が、間違っているように思います。

とかく人は、生きて正常に覚醒していることだけを「正常」と見なす傾向があります。
しかし、そうではありません。
もしそうだとしたら、赤ちゃんはみな「ヘンな人」ということになってしまいます。

人が赤ちゃん時代の記憶を失っているのは、脳がまだ未発達で、「この世」の記憶回路が完全には出来上がっていないからです。
でも「この世」に居ながら、赤ちゃんの霊魂は「あの世」で大半を生きているわけです。
それが脳の発達とともに、だんだんと入れ替わって行く。

死期が近づくということは、ちょうどこれの逆を辿って行くことになります。
食べ物をこぼしたり、ソソウをしたりしても、赤ちゃんならちゃんと見守って育てるでしょう?
それなのに、なぜ老人になると、同じことをしても小馬鹿にしたり、叱りつけたりするのでしょうか。

私も6年前に妻を看取りました。
死に行く人は、赤ちゃんの逆回路を辿っていま下山しているんだということを理解して、接してあげて欲しいと思います。